トミーと言えばミニカー
国内にの玩具メーカーと言えば、バンダイ、タカラが真っ先に想起してしまう僕
幼少期をガンプラで熱くなっていた世代となると、トミーとの接点はほぼ皆無。
たまにこち亀でレアモノのミニカーを熱く語るマニアの話を読んで、うっすらトミーという玩具メーカーを認識したレベルでした。
で、今回の記事を書くにあたりトミーというメーカーを調べた所、生き残りをかけて要所、要所で大きな決断をしてきました。ので、その決断の歴史をカンタンにまとめてみました。
最初の決断はプラザ合意
最初の決断は、1985年のプラザ合意。それまで円安ドル高の為替相場が、円高ドル安となり、トミーならずとも日本企業が上へ下への大騒ぎとなったあの事件です。
玩具メーカーの場合、メインの市場は国内中心なので、輸出主導の自動車産業よりも、さほど影響がないと思いますが、トミーの場合は別。
メイン市場はアメリカで当時の売上の大半をアメリカで稼いでいたんですね。
かなり昔から海外を相手に商売をするあたり先見の明はあったのですが、それが却って仇となってしまったのです。
結果的に、海外での競争力を失い国内にある4つの工場のウチ3つの工場を閉鎖。電機メーカーが国内工場をバタバタと閉じるかなり前から、このようなことをしていたんですね。
タカラとの合併
プラザ合意からの約10年間の暗黒時代を経て、次なる英断はライバル会社との合併。
国内の玩具業界でしのぎを削っていたタカラとの合併を決断します。
業界では圧倒的な強さを誇るバンダイを追撃すべく、トミー、タカラが第二位のポジションを争ってしのぎを削っていましたが、これって、バンダイにとってはありがたい話で、トミー、タカラにとっては相手を利することに気づきました。
ならば、お互い手を組んで、バンダイを追い抜こうとなった訳です。
捨てるという覚悟
タカラトミー会長が、これらの歴史を振り返り、「捨てる」覚悟の歴史的なことを語っています。
工場閉鎖であったり、ライバル企業との合併も、それまで頑なに守っていたものを捨てることで、次の時代が開かれると。
会長のお爺ちゃんも、戦前に一緒に働いた従業員を戻さず、戦後は新しい人材でスタートを切り、新しい時代を切り開いていこうと語っていたようです。
捨てるというのは失敗することも十分に考えられるわけで、相当な勇気がいるはず。
が、それをしないことには道は開けない。色々と発見に満ちたお話でした。