海を当たれば1年中遊べる給料が・・・
時代背景としては大正末期から昭和初期位かと思いますが、日本を捨て海外移住に夢を見て、海を渡った日本人のお話。
当時は、日本で1年間働く給料が数日で稼げるという夢のような話を耳にして海を渡りました。
移住先はカナダのバンクーバー。が、白人至上主義と言いますか、日本人は差別され、お給料は白人の半分で、日々の暮らしもやっと。おまけに日本人というわけで、ひどい差別を受けます。
が、そんな嫌がらせにもめげず親の代から子の代、つまり2世代はきっちりバンクーバーに根をはり暮らしていたというのですから、日本人の粘り強さをあらためて感じました。
唯一の希望は野球
職場や街中で虐げられる日本人の中で、現地の人間で結成された野球チームが彼らにとっての希望の星となります。
とは言っても、プロの選手ではなく、それぞれが働きながら、あいた時間を見つけながら練習を行っていました。
明日の飯をままにならない状態ですから、野球と言って生活が第一。仕事がなくなった若者は野球チームを脱退して、職をまとめて別の街に移住してしまいます。
なので、戦力の大幅ダウンはいたしかたないところ。そんな中で、体格では劣る日本人ならではの試合を思いつくのでした。
いつの時代も一緒かよ。
それが徹底したバント攻撃。ヒットを打てないのなら、バントとそして機動力。塁に出たらとにかく走る、走る。ヒット0本のくせに勝ってしまうこともしばしば。
次第に、日本人はもちろん、白人からも彼らの野球は面白いと評価され、これがきっかけとなり、バンクーバーにおける日本の地位が徐々に上がり、白人との融和が進んでいきました。
まさかの強制収容所送り
誰もが今後は白人との融和が進むと思っていましたが、日本が真珠湾攻撃し、アメリカとの戦争が勃発すると彼らの立場は最悪の状況に陥ります。
それが強制収容所送り。そこでどのような生活を送っていたのかは描かれていませんが、彼らが自由を得たのが大戦終結後から4年後だったということですから10年近くは堀の中だったのでしょう。
2003年に、この野球チームの選手が表彰されることとなりましたが、ほとんんど方が亡くなられていたとのことで、収容所生活が相当過酷だったのでは?と思った次第です。
まとめ
差別に屈しず、生き抜いて地位改善まで起こした、バンクーバーの日本人は凄いなと思いました。
今は、日本街はあと方もないと言われています。そう考えると高田の馬場に住む韓国の人達は凄いなと思った次第です。
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